歯医者へ行くのが好きな人は殆ど居ないと思うのだが、行かざるを得ないという、それはそれは悲しく辛い事実が存在するのも世の常である。
○発覚
十年以上前、顔でソフトボールをキャッチし、奥歯が欠けたことがある。その時レントゲンを取ってくれた歯医者が、いい加減親不知抜きやがれ早く抜かんとわしゃ知らんぞゴルァ、と心優しく逝って頂くのを真摯に受け止めてそのまま生活をしていた私。何の気無しに左上の親不知を指で触ってみた。
指先にエッジな感覚が。丁寧に触ってみると禿しくえぐれている。目には見えないがどう考えても虫歯。痛みは全く無いが、放置しておくにはあまりにえぐれ加減が禿しい。諦念とともに歯医者の存在、さらに親不知抜歯にともなう悲劇の数々(伝聞)が脳内に満ちた瞬間だ。まだ泣くには早いぞ私。
○調査
しかし事実を放置して良い段階は過ぎ去っていると思われた。ここは対策を立てるべく調査だ。私の誇る情報網を駆使して、知人数名とグーグル先生に対して精査を行った。歯を割る、って何ですかそれは。顔を砕くんですか、四本あるんですよ。それだと私は渾沌のようにしんでしまいます。全身麻酔とかは無いんですか。挫けそうになった私は再びエッジを保つ親不知に触り勇気を奮い立たせる。頑張れ私。
近所の歯医者の評判がよろしいのでそこへ逝くことに。
○宣告
初診ゆえ待合室で長時間待たされる。気分はルイ十四世。知らんけど。時間が訪れ、あの倒れる椅子へ。大人な私は落ち着いた振りをして状況を説明。レントゲンを撮られる。その後診察。上二つの親不知は簡単に抜けるが下二つはうちでは厳しいんで大学病院でしないと駄目かも、って全部抜くこと確定ですかそうですか。うちひしがれる私を意に介さず先生はー
一日一本ずつになるんで、今日はどっちにする?
え、今日は問診だけだと思ってたんで心の準備というものが私の中に未だ成立しておらず人間と言うものの本性は(ry
全能力を駆使した懸命の説得の結果により、次回へ持越し、他の軽い虫歯と歯石取り等をしてもらい帰宅。次回は三日後。
○執行(I)
ルイ十四世気分は続く。本日か。と重い足取りで歯医者へ。予約していたためあっさりと例の椅子へ厳かに鎮座。あのー、何故大工道具がそこに並んでるんすかね。それは私にとって何を意味、と考えていると先生がやって来て麻酔を打つ。数本打たれ、暫くして当該の歯を揺するような感覚。麻酔が効いていて痛く無い。顎に圧迫感が加わりメキ、と言う音を聴いたと思うとすぐに圧迫感が無くなる。抜けましたよ。と先生の声。あっさり洗浄が済んだあと、抜いた歯を先生に見せてもらう。想像以上にえぐれた親不知がそこに。当然要らないので処分してもらう。痛み止めと抗生物質、次回の予約をして撤収。意外とあっさり。脱いた日でも治療費は千円程。
晴れ上がったり発熱したりする人も居るらしいが、私は殆ど無く。左上に続き、右上も同様に抜歯。右上は矮小とかで更にあっさり。はっはっは、みんな親不知如きで何を恐れているんだ、子供だなあ。
○治療
下の親不知が斜めに生えているせいで、隣接する奥歯が虫歯になっているとのこと。しかも横から進行したため一本は神経を取らないと駄目とか。聞いてないよママン。未だ下に二本残っているのでばっくれるわけにも逝かない。言いなりになること一月。歯の中の神経を除去して薬品で完全に殺すのに手こずる。その後保険適用の銀歯を被せて治療終了。さあ、残りの親不知。
ウチでは出来ないから、大学病院の紹介状書きますね。
どう言うことですか先生。言いたいことがあるならハッキリ言って下さいよ!(言ってます)
大学病院で治療かあ、私も偉くなったものだ(現実逃避)。
○執行(II)
ドキドキの初大学病院。やはり初体験は緊張するものだ。初診はレントゲンの後、穏やかな物腰の若い先生。本日は治療計画をお話します、と説明を受ける。一本抜いて、落ち着いてまた一本だと。何でも良いぜ、こちとら俎板の上の鯉よ。どうかよろしくお手柔らかに御願い致します。
一週間後、一本目。例によってイヤな椅子。横になると口の辺りを何かで拭かれる。消毒らしい。そして顔に口の部分だけ開いた緑色の布が被せられ、周りの把握が出来なくなる。恐いよ怖いよ。麻酔を打たれ、また顎に圧力が。え、終わったと思いきや何か電動工具の音が。痛くは無いが周りが見えないんでよく分からないんですけど。そして再び圧力と軋む音が。圧が無くなって布が取られる。何かねじの入った親不知を見せられる。奥歯と接する部分を削って、そこへアンカーを埋めて抜いたそうだ。土方仕事だなおい。
抜歯の後の穴は何か黒い糸で綴じられていた。一週間後に除去するそうだ。ふーん、思ったよりは楽かも。治療費が5千円と激高なのに啞然。目を皿の様にして明細を見る。口腔外科による手術。ああ、手術だから高いのか。そうか、ふざけんな、もう一本あるんだぞゴルァ。抗生物質、痛み止め、イソジンを貰って帰宅。
一週間後、抜糸。あの椅子に座ることも無く口を開いてちょんちょん、で終わり。次の治療日を決めて即退散。あと2回。
最後の一本。先生の横に頼りなげな兄ちゃんが。インターンらしいが一抹の不安。あの椅子で待つ間、両隣りのレントゲン写真を眺める。一人のレントゲンを見て戦慄が走る。顎の先の方に立派な歯が写っているんですけど。怯えているとインターンがやって来て麻酔を始める。効いた頃合いになって先生も訪れ、緑の布を被せられ、術式開始。ドリルの音。
アガガガガガ。激痛が走る。インターンがあらぬ場所に麻酔を打ったため、目的の場所の麻酔が効いていなかったようだ。布の下から伺う所によるとだが。先生に怒られるインターン。先生に謝るインターン。私が尊厳無き実験動物になったと感じた瞬間だ。大学病院はこれですから。結局麻酔を数本追加し、抜歯と縫合。今度は二つ割りにして抜いたらしい。兎に角口を開ける時間が長くて疲れた。麻酔で痺れてるし。
術後の説明と抜糸の日時を先生と決める。申し訳無さげに立っているインターン。いいから次に生かしてくれたまい。実験動物の願いだ。再び激高の治療費を払い、お薬一式を手に帰宅。
一週間後、抜糸。バイバーイ。もう来ねえよ。
読者へ
この手記をもって僕の親不知持ちとしての最後の仕事とする。
(略)
遠くない未来に、親不知というものがこの世からなくなることを信じている。
(略)
なお、私が親不知持ちを卒業すことを心より喜ぶ。
Giraud