どちらをチョイスするかを考えて傾向と対策を立てようぜ
世界へお笑いを提供したうえ、日本の識者は同胞向けに体を張ったギャグを披露する契機となった(OECD/PISA2003)、いわゆる生徒の学習到達度調査。
新聞社説などは何故その前提からそんなステキな落ちを導き出しやがりますか、となるわけだが、極東ブログでは一味違う考察が導かれている。詳細は読んでいただくとして、読解力の考査方法に注目されたfinalventさんは、こう結論付ける。
しかし、これができることが世界という場に求められているのは間違いないし、日本の義務教育を終えた子供たちは、たぶん、イザヤ・ベンダサンのいう政治天才性を保持しながら、読解力低能の状況となっているのだろう。「これ」というのは「議論というゲーム」と捉えておくのがよろしいか。
どうしたらいい? 結論はついている。こうした読解力を高める以外に日本人が今後の世界を生きていく道なんかないよ、である。すぐわかる。政治天才だものな、日本人は。
野球やサッカー、オリンピックなどのスポーツと同じで、ルールブックを向こうが持っている為、オリジナルルールを押し切れない日本としてはあちらのルールに乗るしか無いと云うことで。
その読解力を高める方向について、少し考えてみたい。文部科学省の手による本件の概要が閲覧可能であるので、この生徒の学習到達度調査(OECD/PISA2003)(via OECD東京センタ−)を改めてブラウズしてみる。読解力に関するデータとしては、本年度の結果が表10、前回の結果が最後に示されている。今回赤丸急上昇なのは韓国とリヒテンシュタイン。後者はよく知らないのでコメントは差しひかえるが、韓国の上昇は興味深い。単純に前回の結果で奮起したのだろうが、逆にいえば、奮起すれば比較的短期間で順位を上げることは可能だということだ。これにて傾向の概略は一応理解したとする。
ここで、教育に対する私の基本的な考えを示しておく。他所様のブログに断片を書いたが、学校での勉強はできる限り詰め込んで長時間行った方がいいと考えている。詰め込む内容の再吟味は絶対に必要だが、カリキュラムが確りしていれば、難しくしてもついてくるやつはついてくる。年度ごとの成績の分布の変わらなさを想定していただきたい。逆に少ない量だと微細な差異を成績に反映させようとする為、個人の技能差を正確に評価しにくい。また長時間学校に拘束しておくことで、疲れ果てて町を徘徊する気力も減る効果も期待できる。先生はあきらめて血を吐いてくれ。
このような書き込みを行った際、「強制させたって、ダメなものはダメですよ。あっという間に忘れちゃいますから。嫌いなものは絶対に身につかないんです。」と指摘された。前半はその通りだと思うが、後半は頷けない。触れもしないものは知りようも忘れようも無く、好きも嫌いも存在しない為、評価すらできない。触れた人間の中でのみ、好きになっていく人材が現れうる。もうおわかりの様に、私は全人教育を否定している。どうしても駄目なものは駄目で放っとけ、というスタンスだ。但し、それはあくまで勉強と云う限定されたカテゴリでの話なのだから、人格は別だよ、でも賃金には反映されるよ、と教師は上手に説明する必要があるだろう。それも教師の必須スキルだよ。
そして対策に移るに当たり、概要に示されたレイヤー構造(レベル分け)のうち、どこのレイヤーを上げていくかを決めておいた方がいいと考える。上記エントリの最後に記される国立大と私大の学力差にも通じるが。教育に対し劇的な予算増が見込めて、人員も質・量共に無限に確保できるというならいざ知らず、限定されたコストの基で最適解を求めるならば考慮しておく必要がある。生徒一人当たりに費やすコストと学習到達度が大局的には相関すると想定した場合、大別して二つ。下を切り捨て、上にコストを傾注する方法。全体的な底上げを狙い、コストを分散させる方法、この場合下に流れるコスト分、平均値としての上の伸びが悪くなるだろう。
上昇の劇的さから推察するに、韓国は下を切り捨てたのだろう。ただ、下手に下を切り捨てると、アメリカの様に、階級社会が強化され、海外に出すべきでない人材層を増やすことになる(人格とかの問題ではなく)。アメリカの場合、その層をグリップする為にキリスト教があるように思える(参照)。それを日本に翻案するとどうなるか。創価学会かね。あまり気持ちのいい話ではないな。
私としては、もう一方のチョイスである、全体を底上げする方向へ進んでもらいたいと考えている。私が私学出身であるというバイアスがかかっているのかも。セカンドレイヤー以下の技能が少し下がることになるだろうが、社会の流動性を現状程度に保持する為にもそうあって貰いたい。何かEU圏の国っぽくなるような気がするが。宗教という装置を頭ごなしに否定するものではないが、あまりに特定宗教の信者が多い状況というのは勘弁願いたい。うむ、私も日本人だね。
いずれの選択をとるにせよ、トップレイヤーの人材には関係ない。彼等はこれまでも自分でやってきた連中であって、必要なのは非難したり弾圧したり、逆に祭り上げたりもせず、今まで通りそっとしておくことだろう。そうすれば彼等はこれからもそうしてやっていかれる。
具体的対策であるが、訓練を積めばいい。例えば議論であったなら、あるルールを設定し、そのロジックに基づき異なる意見を展開する技術を。何度か繰り返し、毎回互いに立場を入れかえてやるのが効果的。「インディアンの嘘」とか言うのがあった気がするが失念。本を読むのは自由だが、それはこの場合の読解力とは関係が無い。何故なら議論は説明の技術であって感想文を書かせることではないのだから。勿論どちらが正しいとか、自分が心から思うこと、大事な、とかの寝言を起きて言うことでもなくてね。取るに足らない議題であっても敢えてやり合ってみるとか。逆に血の気があがらなくていいかも知れないよ。先生同士が模擬的にやり合ってみるとかしてくれると一番いいんだろうが、経験無い人が多そうだから何かマジでバトルしそうだね。課外時間の応用編としてはディプロマシーとか人狼とかをやりこなしたり、TTRPGのGMを持ち回りでやってみるとか。
更に言えば、こういうときこそ学校に転がっているコンピュータを使う状況ではないかとも思っている。ブログとか、といえば我田引水過ぎるかな。
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