切込隊長@山本一郎の文芸作品のマイ評価
コメントしろと天からの啓示があったので。
まず各ジャンルの私的ランキング。
評論 ◎ 確りとした立ち位置に基づく的確な論説と毒のバランス
以上、買おうかなレベル(買ってます)。
エッセイ ○ キャラを知っている人にはおもろい
ショート ○ エッセイ共々、人情風なある種お約束の落ちで読後感がまずます。
以上、読んでみて考えるレベル。またの名をブクオフ待ちレベル。
長編 × 取っ付きがどうも
ブクオフ百均でお試しレベル。 LTSを頑張って読んでみるテスト中。
以下、エントリに関するコメント。
> ○ アメーバブログ雑感
デイリーで、だいたい1,700人か1,800人ぐらい、多い日で3,000人ぐらいが「晴れるといいねっ!」にアクセスしている。たぶん「俺様キングダム」を読む層と、「晴れるといいねっ!」みたいな文章を読む層は格段に違うのだろうと思う。多くは俺キンから飛んだことに始まる筈だが。
以外とリンクを踏むのはめんどくさいんですよ。
> ○ ランキングと読まれるブログについて
反響を書いてもらおうと思っていたcasTYの掲示板にはなかなか書いてもらえなくて、なんか「俺様キングダム」に書かれたり「切込隊詰所」に置かれたりする。だから別のところへのリンク踏むのは面倒なんだって。
まあ、その場でコメントを書いてもらえばユーザーにとってはそれが一番楽なのだから、それをはじめからやれば良かったのかもしれないけど、個人的に思うのは、それだと単に具の違う「俺様キングダム」が一個増えただけになるのではないかなということである。最近かまびすしい「信者議論」とかもいろいろ影響していると思う、自分のなかでは。まあ、批判的な書き込みは名無しであってもやはりしにくいところがあってですな。それに信者が教祖によかれと思って動いていることが必ずしも教祖の為になっているわけではないと言うことですね。隊長の意見に反するTBをかけると、そこに名無しで低レベルのカキコする馬鹿が出没しているのと同じ現象で。
> ○ ブログ上の人通りについて
ネームバリューの無い人でどこにもアピールしない場合、
短期間では読者はつきませんとだけ。
> ○ ネット上のブンガクについて
たぶんネットに限らないのだろうが、やはりずっと新聞や雑誌を読んできて思うのは、フィクション、ノンフィクションに限らず読者や受け手の読み解く力、観る力のようなものが相当落ちてきているのかなということである。さてそれはどうかな。読みたい、という意志を持たない層が縛り付けられる要素が薄れ、読まなくなったことが売り上げに反映されたと言うことでは。階層化社会の現れでもあるのだろう。商業ベースに乗りづらくなっているのは受け手としては提供されなくなることになり問題だとは思っているが、それは読者や受け手の側のみに帰結されるべく原因であるとはどうも考えにくく、書き手と受け手の共進化的な結果だと考えている。
では、そういったものが俗に言う表現としての文学に残っていくのかというと疑問は残る。例えば私たちは亡くなった司馬遼太郎とか吉川英治の本とかは普通に読む。おそらく、将来にわたっても村上春樹とか新田次郎とか京極夏彦とかそういう人たちの本を読んでいるかもしれない。でも、純然たるセールスの母数からすると、商業的なブンガクに組み入れられている比重が大きくなって、あまり世代を超えて読まれる文学というのは事業として成り立ちづらくなっている気がする。では「ガッツ伝説」とか「鉄拳」とか通俗的な読み物が、別の意味を備えて将来の世代に共感を与えうるかといわれると悩んでしまう。無理でしょ。通俗的な読み物は文学には残らず文化史の中の資料として残っていくだけで。
司馬遼太郎はある意味分かりやすい部類ですが。私の好きな池波正太郎さんと比べると、白黒がハッキリしていて、きつく言えば漢字さえ知っていれば、別に読み解く力はいらない部類の作品だと思う。壮大なお話は多くて、多くの人間が楽しめると言えばそうなんだが。
京極夏彦もラノベ扱いされている面もあるし。いやなっちゃん好きなんですが。
話題性というのは属人性の賜物であって、ガッツという人物と時代を共有しなければその書物が面白くないかもしれないと感じるのと同様、切込隊長つーか山本一郎という人物の属性を知らん人にどういうものを提示すればいいのか少し悩んでいる。というより自信がない。やはりシナリオやプロットの仕事をやってきて自分なりに頑張ってきたつもりではあるが、ゴーストに甘んじている人でも凄い人は凄い。また十代で芥川賞をとった青年(ピアス女にあらず、架空の設定)のような純粋さに満ちた吐露を。その全てを自分が決めるという姿勢はわかるけれどさ。
そもそもそれは隊長の決めることなのかと小一時間(ry
無償のブログや同人なら好き勝手絶頂に本人の書きたいことを書いていればいいんだし。勿論これは隊長の属性を知る連中がおもに読者になってしまっているが。商業ベースにおいては京極夏彦も言っているように、依頼を受けて職人として書く、これしかないでしょ。どういうものを提示すればいいかを決めるのは編集者を含む出版サイド。隊長は今までの仕事とこうした作品群という目安があるんだから、依頼もそれを踏まえたものが来る筈なので、そこで折衝するという、おそらく今まで通りの方法しか無いように思います私。
その向こう側を見定めたい。というか、霞んで見えない感じがして、すっごく腹が立つ。しかも誰もそういうことをやっているように見えない。仕方がないので、ちょっと自分でも試してみようというのが正直な感想である。向こう側を見定めたい、と云うのは私が別事象に対して密かに抱いている思いと同じでござります。それは偉い遥か彼方、ガンダーラかアルカディアかシャンバラ逝きコースだな、と思えるわけですが。
まあ、いつもながら丸くおさめるオチが秀逸だなと。これからもがんがん逝っちゃって下さい。
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